サッカーライフin Mzk74’s diary

サッカーと共に生きる

ディエゴ・アルマンド・マラドーナ<中編>

アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの郊外の街ラヌースで1960年10月30日に生を受けた少年は5番目にして待望の最初の男の子でした。

父の名はディエゴ、母の名はダルマ、貧しい家庭環境であったものの1歳の誕生日には大人が使用する革製でできた本物のサッカーボールがプレゼントされました。

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マラドーナ幼少期

歩き出すのと同時期からボールを足で操るようになった男の子はセボリータスと呼ばれたサッカーチームで活躍するようになり、10歳になる頃にはプロリーグのハーフタイムショーでリフティングを披露して天才少年として有名になったそうです。

 

天才少年以外にも才能豊かな選手がいたセボリータスは無敵を誇り、トップチームが国内トップリーグに所属するアルヘンチノス・ジュニアーズの下部チームとしてチームを丸ごと吸収してしまったほど圧倒的なプレーを魅せていたようです。

アルヘンチノス・ジュニアーズ

少年は13歳になるとトップチームに昇格して、15歳でアルゼンチン・リーグ史上最年少で国内最高峰のリーグに出場して、翌月には初ゴールを記録しました。

1977年には最年少記録でアルゼンチン代表デビューを果たし、自国開催で優勝した1978年のワールドカップの最終候補にまで残るほどの実力を示すまでに成長しています。

※本大会出場の最終メンバーに選ばれることは無く悔しさを堪えながらテレビで観戦したようです

1978年~80年にかけての2シーズン連続で得点王に輝き、20歳にも満たない選手がキャプテンマークを付けてチームを牽引していました。

 

ボカ・ジュニアース

翌年1981年には幼少時代から憧れていたアルゼンチン国内で人気を2分する名門クラブ、ボカ・ジュニアースに移籍します。

富裕層に人気の名門クラブ、リバー・プレートとのスーペル・クラシコでボカの全3ゴールを決めてすぐにチームを象徴するスター選手となりました。

 

 

FCバルセロナ

1982年スペイン・ワールドカップが開催される年に史上最高額の移籍金でスペインの名門FCバルセロナと契約を交わした青年は人生初のワールドカップの舞台に立ちました。

ディフェンディングチャンピオンの10番を背負い、世界中に才能を見せつけますが、母国アルゼンチンがそうであったように当時のサッカーは暴力まがいのディフェンスでしか優秀な選手を止める術を知らずに、現在では即退場になるような汚いプレーでスーパースターとなった青年を容赦なく痛めつけました。

自身が受けた仕打ちを相手に対して行った事で夢の舞台では望むような結果を残せずに、新たなチームで自身の価値を証明するしかありませんでした。

移籍初年度はウイルス性の肝炎を患うなど、コンディション面が万全ではありませんでしたが、国王杯ではレアル・マドリードと対戦となった決勝のクラシコで勝利を収めてタイトル獲得に貢献しました。

 

翌年にはアルゼンチン代表で共に戦ったメノッティ監督がバルセロナの監督に就任してサポーターの期待がふくらみましたが、またしても相手ディフェンダーの汚いプレーによって目標を阻まれる結果となってしまいます。

アスレチック・ビルバオのスペイン代表選手に後方からスライディングタックルを受けて黄金の左足を骨折してしまう不運に見舞われました。

驚異的なスピードで回復した青年は天才的なプレーを披露しましたが、因縁の対決となった国王杯の決勝戦、アスレチック・ビルバとの試合で乱闘騒ぎを犯してゲームを中止させるきっかけを作ってしまいました。

 

SSCナポリ

スペインでサッカーへの情熱を失いかけていた青年は自身が持つ移籍金の最高額を更新する契約でイタリア南部のナポリへ新天地を求めて飛び立ちました。

北部の大都市を本拠地とするミラノ勢やユベントスに覇権を握られ続けるナポリのサポーターは天才青年に希望を抱き、チームは彼を中心に動く事で天賦の才能とチームの結果が融合する環境を築き上げて夢のような時間を過ごすこととなります。

子供心を持ちながらも大人へと成長した天才青年は中位に甘んじていたチームを優勝争いが出来るまでに導き、1986年以降は絶頂期を迎えます。

※1986ワールドカップマラドーナの活躍を期した<前編>に興味がある方はこちらをご覧ください

mizuka74.hatenablog.com

メキシコ・ワールドカップで母国アルゼンチンを2回目の世界王者に導く活躍で、ナポリ市民は彼を英雄に祭り上げ、天才は自身が持つ才能を如何なく発揮します。

圧倒的な独力でゲームを支配したワールドカップのように86-87シーズンのセリエAでもナポリを初のリーグ制覇に導き、数々の妙技で世界中を魅了します。

同年にはコッパ・イタリアも制して2冠を達成して世界最高の選手であることをプレーと結果で世界に認めさせる存在になりました。

 

翌年はリーグ制覇を逃しましたが、リーグの得点王を獲得する活躍を魅せて、サッカー界の戦術的な革命となる名称アリーゴ・サッキが世に広めて現在ではスタンダードな戦術となったプレッシングを編み出すきっかけとなったとまで言われています。

 

革新的なプレシングで世界王者にまでなったACミランを相手に1990年イタリア・ワールドカップを控えた89-90シーズンには再びリーグ制覇を成し遂げてワールドカップに挑む戦いが始まるまでがディエゴ・アルマンドマラドーナの物語で一番美しい時間だったのかもしれません。

 

マラドーナと共に・・・

キャプテン翼が理想の選手像だった私は小学校の砂場でオーバーヘッドキックの練習をして楽しんでいました。

中学生になり、母親に無理を言って買ってもらったビデオレコダーでマラドーナのプレーを観てから、私の人生は豹変してマラドーナと同じプレーができるサッカー選手になる事を夢見て暗くなってもボールを蹴っていたのを思い出します。

視覚だけではなく理論的にサッカーのプレーを感じるのに非常に役に立たのが「マラドーナスーパーサッカー」でした。

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マラドーナスーパーサッカー

マラドーナマニアとなった私は写真集も購入してマラドーナのありとあらゆる情報を脳の中にインプットしてマラドーナになる事を夢見て大人になり、今でも最高のサッカー選手はマラドーナであり続けています。

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今では全国に何店舗あるか知りえませんが、KAMOが横浜にオシャレな店舗を出店してコーチと一緒にお店に初めて行った時に店内のビジョンに流れていて衝撃を受けた映像です。

コーチになって子供たちに伝えたいと思ったボールタッチの理想で、曲芸的に見えるかもしれませんが、ボールの中心と自分の足を一体化したかのような、究極の感覚を手に入れてボールを自分の体の一部の様に扱うボールテクニックはサッカーの美しさの大事な要素だと今でも感じています。