サッカーライフin Mzk74’s diary

サッカーと共に生きる

あの選手達は今~○○○○長岡~

私がまだ社会人のサッカーリーグでプレーしていた頃、以前にお世話になった鍼灸院の先生息子と同級生が一緒にプレーできる少年サッカーチームを立ち上げたいので手伝って欲しいと相談を受けました。

 

お世話になった先生の意思と、サッカーで人生の大半を費やして生きてきた私が断る理由もなく2週間に1回、土曜日の午前中にコーチを引き受ける事になりました。

私は遠慮しようと思っていたのですが指導料も十分な金額を頂きました。

小学3年生が中心のチームは当初7人程で練習も公園の空スペースな事もありましたが、親御さんも協力的で、なにより私にとっては初めて選手に指導するコーチだったこともあり試行錯誤を繰り返していました。

選手達(子供たち)のためにも正式に活動して協会にも登録すために必要なチーム名の名付け親を依頼されなした。

僭越ながら私なりに考えた末、外国語幸せを意味する言葉を提案させて頂き、今でもチームは存続しているはずです。

※後々の話ですが、お世話になった先生は若くして他界してしまいました。

 

先生、色々とありましたが、ありがとうございました。

息子さんは立派に育ったと私は感じましたよ!!

 

コーチ主任から半年後に、私自身の職場が変わった事によりコーチは辞任させて頂くことになってしまいました。

 

 

時が流れて、息子が小学2年生の冬に近所の仲良しの友達と一緒のチームに入ってサッカーをしたいと打ち明けられました。

無論、私は嬉しかったのですが息子の友人が入っていたチームは、偶然にも私が命名を依頼されたチームだったのです。

息子の入団と共に案の定、私はコーチをお願いされました。

以前にお世話になった先生(鍼灸院)の頼みを断る事は出来ずに私はお父さんコーチになりました。

その後の話は割愛しますが、今回のお話で紹介したかったエピソードを紹介します。

 

お父さんコーチになって間もなく、東日本大震災に見舞われて日本中が悲壮感に打ちひしがれていました。(私の仕事も現在の新型コロナウイルスの影響と同じく、材料供給などの問題に直面して通常の業務は難しい状況でした)

しかしながらサッカーを元、スポーツ業界で日常を過ごす人達の熱意は常にポジティブで、被災地チームを招待して例年通り大会を開催されました。

 

お父さんコーチとして大会に参加しましたが、サッカー好きにはかなわず、チームの空時間を見つけて個人技に特化した岐阜県のチームが参加している情報を聞き、試合観戦をしました。

噂通り、個々の技術が特徴的なチームで私の(息子)チームでは現状では太刀打ちできないと、刺激を受けました。

 

案の定、私(息子)チームは予選リーグで1位を逃し下位トーナメントへの進出を余儀なくされました。(私のコーチングはさて置き、息子は大活躍してくれましたが・・・)

 

全試合終了後に表彰式の参加があったので子供たちを促して決勝戦を観戦することにまりました。

 

やはり、噂の岐阜県のチーム(白のユニフォーム)が勝ち残っていました。

対戦相手は(私の曖昧な記憶)ブラジルカラーのチームです。

 

私の予想に反してブラジルカラーチームが圧倒的にゲームを支配して大勝で優勝しました。

ブラジルカラーのチームは個々の技術と駆け引きに優れた選手が多数いて、おそらくジャンケンか順番だったのかGKで出場した選手はハーフェーライン付近でプレーして1対1の局面でも臆することなく、相手を翻弄していました。

GKを交わしてもシュートを打たずにパスするような厭らしさを持ち合わせた選手達を観て私は「こんな選手達が将来の日本代表になるんだろうなぁ」と感じました。

 

さらに、時は経って今年の高校サッカー選手権のベスト4に進出したチームのプレースタイルに共感を得ました。

 

この二つのチームは同じ地域の団体なのです。

 

あの頃に圧倒的な個人技を有した選手の現在が気になってしかたありません。

 

○○○○長岡

○○長岡高校

 

両チームに育成せれた選手はきっと日本サッカーの成長に貢献する存在になりそうです。