あの選手は今~マラドーナのようなボールタッチ~
若くしてサッカーに夢中になった私は片親である母親に無理を言って
サッカーの大国に留学させてもらいました。
お母さん 本当にありがとう
当時、サッカーで海外に留学するなど夢のまた夢で(日本にJリーグが発足する前)
誰も知りえない未知の領域が多すぎました。
ただ、実現した私は根拠の無い自身と供に今まで経験をしたことのない希望と興奮と不安が入り混じった状態で初めての海外生活が始まりました。
身近な人でいなかっただけで一緒の飛行機にのって留学した全国各地から結集したサッカージャンキーは10人近くいたと記憶しています。
(一緒に飛行機に乗った戦友は後にJリーガーになったり、フットサルで良い意味で変人扱いされている人もいました)
現地には日本人留学生のいわゆる寮があって、そこで1週間くらい過ごす間に各選手のチームが決まり、時間差で各々が寮を後にして本当の挑戦に旅立つ事になりますが、
寮の目の前にあった道路で、想像していた通り普通にストリートサッカーが繰り広げられていました。
早くボールを蹴りたいサッカージャンキーの私たちは、もちろんストリートサッカーに参戦しました。
一緒に遊んで感じたのは、やっぱ巧いなってのが本音でした。
が、しかしそれを観ていたスタッフ(JSL日本トップリーグでプレーしていた現地人)が「こいつら下手だから、ケガしないように気をつけろよ!」って言葉に、これから行くところはどんなレベルなのかと少し不安になりました。
チームが決まり遠方のチームで練習を始める事ができましたが、1ヶ月程で諸事情により寮に帰ることになりました。
1ヶ月たって前途の事が初めて理解できました。
たかだか1ヶ月しか経っていないのにプロチームの下部組織で練習していた私にとっては、あのストリートサッカーの名手達は下手くそに見える様になっていたのです。
どんな事情だったかは覚えていませんが、私より3年ほど前から留学していて現地でも超名門の下部組織に所属する先輩も寮にもどってきていました。
当時、現地に着いたばかりの私と比べたらサッカーに対する情熱はそれほど感じられず、ボールを蹴る姿を見たことがありませんでした。
それでも普通の選手が通用するレベルではないクラブで選手として(練習生は選手として登録されない)登録される可能性がある先輩はメッチャ巧いとの噂を聞いていました。
都市中心部に近い高級住宅街の一角にある寮は中庭にタイルがひてあるスペースが敷地内で唯一屋外でボールをさわれる場所でした。(廻りは塀で囲まれていて出入り口以外からは外部から侵入するのは不可能な町屋みたいな構造)
留学してから3年以上経つ先輩はストレスに苛まれていたのかサッカーよりも気分転換に積極的な感じでした。
が、ある時に中庭でリフティングしていた私たちの輪に突然加わってきました。(やっぱりサッカーが大好きなんですよね)
初めて先輩がボールに触るのを見ましたがビックりしました。
普通はボールを蹴ってリフティングをするのでボールが上下するのですが、先輩はボールを蹴る感じとは真逆で、ボールに触る瞬間は逆に足を引いているのではないかと感させるほど柔らかいタッチ(ボールはほとんど上下しない)でリフティングしたのです。
噂でしか聞いた事のない先輩のプレーがどんな選手なのかをイメージするには十分なボールタッチでした。
何年か後にトレーニングマッチで実際にピッチで対戦する機会がありました。
私が所属している現地選手よりセンスを感じるタッチで私の理想の選手であるマラドーナと対戦しているような夢の時間でした。
この頃の先輩は名門チームから移籍していて、コンディションも全盛期に比べたらかなり落ち込んでいたにも関わらず、メッチャ巧かったです。
ボールタッチが柔らかい選手は時間の駆け引きで優位に立てます。
先輩やマラドーナはドリブルをしている時にボールに触れている時間が長い分、足からボールが離れるまでは自分の時間になります。
対峙する選手にボールを蹴るので柔らかく押し出して運んでいる状況ではディフェンダーは次のボールの行先を予測が困難で、ボールと足が離れるまでは安易にボール奪取に行こうとすると、簡単に交わされてしまう状況にいて次のプレーの予測も難しいです。
先輩は現地の選抜チームの一員として日本でのカップ戦に出場して見事優勝しました。
メンバーの半数と監督は当時、私がプレーするチームの選手と監督でした。
先輩の同胞で私の兄のような存在の○さんは今でもサッカーと共に生きていますが、エンジェルタッチの先輩はあのまま成長していたら、現在、川崎フロンターレで活躍する家長昭博選手(川崎フロンターレ)のようなプレースタイルの偉大な選手でした。
もう、サッカーはしていないと思いますが多分、今やってもセンス抜群だと思います。
「足に魂込めました」byカズ