サッカーライフin Mzk74’s diary

サッカーと共に生きる

あのコーチは今~ドイツへ旅立った神戸出身の○○やん~

キャプテン翼がサッカーと出会うきっかけでした。

元来、野球が好きだった私はいつの間にかサッカーに魅かれ、今ではサッカー無しでは語れない人生を歩んできました。

当時は地元の町ごとに野球の少年団があって、私も入団して、ゆくゆくは甲子園出場、プロ野球選手になるのが夢でした。

しかし小学校低学年で父を亡くして、家族で引っ越す事になりました。

引っ越し先の地域は以前に住んでいた町とは違いサッカーがわりと盛んな地域でした。

自分の通う小学校には有りませんでしたが、歩いて数分の場所に建つ小学校を拠点にしたサッカーチームの少年団がありました。

さっそく私は入団を試みましたがボランティアコーチと親御さんの協力でなりたっている少年団チームで、平日の練習は親御さんが当番制で練習場所に居れる事が条件でした。

母親1人で3人の子供を育てる私の母が平日の昼間に少年サッカーの登板を出来る訳がありませんでした。

 

今まで面と向かって言った記憶はありませんが、この場を借りて、

 

 お母さん ありがとう

 

それから1年が経ち、私のサッカーへの気持ちは衰えるどころが徐々に増えて行きました。

小学6年生になった頃、当時の私の認識を超えるサッカーチームが存在する事を知りました。

今では当たり前になったクラブチームです。

費用は少年団より格段に高いのですが親がチーム運営に関る事はなく、母はそのチームへの入部を許可してくれました。(最初の条件である、自転車での往来を、チームメイトとの時間を共有したくて、たった1駅を電車で通い余計な出費をさせてしまいました)

 

その時に入ったクラブは後に消滅してしまいますがJリーグ開幕時にオリジナル10に名を連ねたクラブの母体となったチームでした。

小学1.2年生を女性の○保?コーチ。

3.4年生を当時、現役選手だった熊○コーチ?

そして、私がプレーしていた5.6年生とジュニアユースはプロ?(おそらくサラリーマンとしてクラブに勤務していた)コーチの○○淳さんでした。

私の記憶が正しければ通称テシやん(本人が居ない時に選手が陰で呼んでいた)からは多大な影響を受けました。

私のことを○○カメと呼び、6年生の夏休み前に入部して友達が居なかった私をいじってくれていました。

JSL時代に読売クラブの試合に連れていてもらったり、ブンデスリーガで活躍した奥寺選手が帰国して初めての試合、国産プロ第一号の木村和司選手と三ツ沢球技場で対戦した試合も一緒に観たと記憶しています。

私がジュニアユースに進んで間もなく、ドイツへサッカーの勉強をしに旅立って行きました。

あれから一度もお会いする事が出来ていません。

風の噂ではジュビロ磐田時代のオフト監督の通訳兼コーチだったとか?

もし、そうだったら遠○智也って選手を知らないですか?

テシやんがこのブログを見る事はないと思いますが、いつか再開できた時にはサッカー人生の話をしたいです。

プラティニのプレーを解説して首をふって状況を把握する(当時はそこまで認知の部分にフォーカスされていませんでした)事を何気なく伝えてもらったのを覚えています。

テシやんが知る昔の私からは想像しないような人生を送ってきました。

ネモッ○、松○ガク君、ムラちゃん、GKの頭の回転が速い・・・○山?だったか名前が思い出せない元チームメイトとも、いつかどこかで会える日が訪れるかもしれませんね。

大○原君とは何年後かに階段をすごく登って行く公園のグランドで一緒にプレーした記憶があります。

17歳頃だったかな?

 

みなさんが幸せな日々を過ごしている事を願っています。

 

「育成年代の指導者の仕事は素晴らしいと思いますよ。子供たちは、プロを目指している時期にしっかり教わったことは絶対に忘れませんし、彼らの思い出になるのですから」

byミゲル・アンヘル・ルッソ前ボカ・ジュニアーズ監督